「琵琶湖疏水ハイキング」に参加しました。
これは、京都市上下水道局の主催で、「琵琶湖疏水記念館開館20周年記念」のイベントとして、11月8日(日)に行なわれました。
コースは、蹴上の浄水場前で受付後、記念館に寄って、インクラインの軌道を歩き、ほぼ疏水沿いに山科・四ノ宮の船溜(ふなだまり)までの、約6Kmです。
途中、5か所で疏水に関するクイズがあり、勉強しながらのハイキングです。私は、カメラ片手に、景色を楽しみつつ歩きました。
スタートが午前10時15分、ゴールは午後1時30分、途中休憩や昼食時間が約30分、全歩数は約15000歩でした。クイズは5問全問正解でした。
実は、私にとってこの3日間は、琵琶湖疏水漬けでした。
6日が記念館での専門研究員の方の詳細説明を聞き、7日は記念館での講座、そして8日がハイキングと言う具合です。
なお、「琵琶湖疏水」に関しては、後の方でご紹介します。
記念館やインクラインは9日にここです記事をupしていますので、疏水の出口辺りから、ご紹介を始めます。
琵琶湖疏水の工事の総責任者である「田辺朔郎博士」の銅像です。
右手には、設計図が握られています。
1861年、江戸生まれ。1883年、工部大学校(今の東京大学)を卒業。
第3代京都府知事の北垣国道に招かれ、琵琶湖疏水工事の責任者となる(1887年)。のちに京都大学教授となる。
琵琶湖疏水が最後のトンネルを抜ける出口です。
右に見える建物は、御所に水を送るためのポンプ室です。
明治45(1912)年に建てられました。
疏水から暫く離れて、国道旧1号線を歩きます。途中にあった「車石」(くるまいし)です。これは、江戸時代後期に東海道のこの辺りの坂道を往来する、米俵などを積んだ牛車が、少しでも楽に通行出来る様に工夫したものです。
石に車の巾に合った溝が付けられています。
江戸時代、ここ日の岡峠には刑場がありました。
ここで亡くなった人を供養する為に、ある僧が建てたものです。
再び、疏水沿いに歩きました(それまでは、ずーっとトンネルの中を疏水は流れています)。
疏水に架かっている橋の1つですが、「日本最初のコンクリート橋」です。
通行の安全のため、鉄枠が付けられていますので、一寸見難いかも知れませんが、白く光っている部分が橋の上面です。
第2トンネルの西側出口です。トンネルは合計3つありますが、どのトンネルの出入口の上部には、上の様に扁額が取り付けられています。
また、入口の扁額の字は凹形に、出口は凸形にすると言う凝り様です。
扁額の文字は、当時の偉い人が書いています。ここの文字は、西郷従道の「随山到水源」(やまにしたがいて、すいげんにいたる)とあります。
他に、伊藤博文・山縣有朋・松方正義・井上馨・三条実美が揮毫(きごう・特に頼まれて知名人が書を書く)しています。
疏水の流れは、岸辺の木々を映しながら、ゆったりと流れていました。
疏水のルートは、山の裾を辿りながら造られましたので、ゆるやかなカーブを描いて流れています。
両岸の木々も大分色付いていました。
疏水に沿って、俳優の近藤正臣さんの母校「京都府立洛東高等学校」がありました。コスモスさんは、近藤さんの後輩です。
ゴールの「四ノ宮舟溜」です。
左手奥に、暗くて見難いですが、トンネルの入口があります。
「琵琶湖疏水」のことについて、少しだけ触れさせて頂きます(資料は、記念館で頂いたパンフレットから取りました)。
京都にとって、琵琶湖の水を引くことは昔からの夢でした。
第3代京都府知事となった北垣国道は、明治維新による東京遷都により衰退した京都に活力を呼び戻すため、琵琶湖疏水の建設を構想しました。
疏水の水力で新しい工場を興し、舟で物資の行き来を盛んにしようという計画です。
福島県安積疏水の主任技師・南一郎平に琵琶湖疏水計画の調査を依頼し、大津・京都間の測量を島田道生に命じ、東京の工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎を土木技師に採用するなどの準備を進めました。
着工は、明治18(1885)年。5年後の明治23(1890)年に完成。さらに、明治45(1912)年には、第2疏水も完成。こちらは、京都三大事業の1つです。三大事業とは、第2疏水の建設のほか、上水道建設、道路拡張と市電敷設です。その結果、日本で最初の市電が走りました。
琵琶湖疏水は、まさしく明治から現在に至るまで、京都に命の水をもたらすと共に、今日の京都のまちづくりの基礎が出来上がりました。