少し前のこと(11月21日)ですが、企画が気に入ったので参加しました。
それは、少し長くなりますが、次の様なタイトルです。
スタンプラリー「淀城と勝龍寺城を巡る」 京都市考古資料館開館30周年記念「京都 秀吉の時代」記念事業イベント・「関西考古学の日 2009」イベント と言うものです。そして、JR長岡京駅東口と京阪電車淀駅近くの「與杼(よど)神社前」との2か所の双方から同時に、スタートすると言うものです。
さらに、スタートは午後1時からです。
豊臣秀吉が愛した「淀殿」と、細川忠興が愛した「細川ガラシャ」の2人の、戦国時代を生きた女性に想いを馳せながらのウォーキングです。
距離は約4Kmです。
私は、JR長岡京駅からスタートしました。友人との2人旅です。滅多にないスタイルです。
駅前は、早くも史跡です。江戸時代に永井直清が新たに構えた「勝龍寺城」の「神足館」(こうたり・かん)の跡ですが、縄張りを描いた絵図からと言う事で、今は何もありません、と言う係りの方の説明を聞いて、次に向います。
まず目にしたのは、勝龍寺城(しょうりゅうじ・じょう)の土塁の跡です。竹薮の中に、それは見えましたが・・・。
傍に立っている説明板によれば、「土塁跡と空堀」とのことですが、余りよくは判りませんですね。
その近くには、この地名の由来となった「神足神社」です。以前は、JRの駅名も「神足」(こうたり)でした。近くに「神足」さんと言うお家もありました。きっと古くからここにお住まいなんでしょうね。
神社の由来は、桓武天皇が見られた夢の中のお告げによるものだそうです。
勝龍寺城跡を整備した公園です。こちらは、織田信長の家臣だった、細川藤孝が居城としたところです。明智光秀の三女・玉(後のガラシャ)が、藤孝の長男・忠興に嫁いだのは、ここのお城でした。
本能寺の変の後、一時光秀がここに入ったこともあります。
公園内に建てられた「細川忠興とお玉」の像です。
お城の名前の基になった「恵解山・勝龍寺」です。往時は99もの坊があったとのことです。大同元(806)年、空海の創建です。
ぼけ封じのお寺の1つです。
恵解山古墳(えげやまこふん)です。古墳時代中期の前方後円墳でする全長約120mあり、この地域(乙訓・おとくに)では最大規模をもっています。
前方部からは、約700点の鉄製武器類が出土しています。
国の史跡に指定されていて、近くには展示室もあります。
左手が後円部、右手が前方部です。鉄製武器類の出土跡も、判り易く残されていました。手前のコスモスは取り放題とのことで、少し頂いて帰りました。
小畑川を渡り、名神高速のガード下をくぐり、桂川の手前には、「水垂(みずたれ)収蔵庫」と言う、京都市内で出土した遺物を収蔵する倉庫があり、休憩と見学をしました。写真は撮っていませんが、金閣寺境内から出土した大きな「修羅」が2つ、展示されています。大きな木のY字形のもので、石など重いものを運ぶ「橇」見たいなものです。修羅の下にはコロを入れて動かすそうです。
桂川に架かる「宮前橋」を渡ります。川の中程には、昔の與杼神社の跡地があるそうです。
淀の町(京都市伏見区)に入りました。初めの史跡は、「唐人雁木(とうじんがんき)」です。江戸時代の朝鮮通信使が、淀川をさかのぼり、この場所で上陸した場所です。「雁木」とは、階段状になった船着場のことだそうです。淀には宿がありました。
豊臣秀吉が、愛する「淀殿」のために建てた「淀城」跡、「妙教寺」境内です。
幕末の戊辰戦争の戦場でもあったところです。
2つのことを示した石碑です。
史跡、(右には)淀古城址、(左には)戊辰役砲弾貫通跡、とあります。
「淀城」跡です。こちらは、江戸時代に建てられたものです。本丸跡や堀が残っています。徳川秀忠・家光が上洛の際に、ここに入っているそうです。
本丸跡の高い所から撮りました。西を向いて撮っています。
水面に映るお日様も、やや夕日っぽくなって来ました。
日頃は上れない本丸跡の上から撮ったものです。
係りの方の説明を聞きながらの見学です。
最後は、「與杼(よど)神社」です。元は桂川の河川敷にあったものを、明治35(1902)年に、ここに移されました。桃山時代の拝殿は、国の重文に指定されています。
午後1時に出発して、締め切り時間の4時ぎりぎりの到着でした。
2人旅は、おしゃべりしながら、ゆっくりと楽しく歩けました。